千葉大学の歴史トリビア

千葉大学の歴史トリビア The history trivia of Chiba University

千葉大学発足時に構想されていた幻の学部とは何か。

1948年の「千葉大学設置申請」には、千葉地域の特色を活かすため、水産学部・畜産学部の構想も掲げられていました。
特に、水産学部については、「三方を海に囲まれ、漁業が盛んだが、漁法などは古く停滞している現状を、科学的に啓蒙する指導者・技術者を養成したい」とする千葉県当局が、館山市への設置を訴え、経費の一部を負担する準備をしていました。
また大学側も積極的な姿勢を見せていたのですが、東京水産大学設置が先行したこともあり、結局、幻に終わりました。(2013年3月)

「看護学部」の第一期生の男女比は?

国立大学で唯一の「看護学部」が設置されたのは1975年のことで、医療の急激な発展に対応する専門家の育成に応えるためでした。
初年度は変則日程で入試が4月下旬、開講は5月でした。このときの志願者は466名おり、合格者は61名、競争率は7.6倍でした。
現在の看護学部は定員80名中、男子学生は数名しかいませんが、初年度は22名が男性(全体比3割)で、看護学部という新しい領域が、社会的に大いに注目されたことが窺えます。(2014年4月)

  • 1948年の西千葉(東大第二工学部)の航空写真

西千葉キャンパスの隣りに、東京大学生産技術研究所があるのはなぜ?

西千葉地区は、1942年に「東京帝大第二工学部」として開かれた場所で、その10年後には「東京大学生産技術研究所」となりました。
一方、1949年に誕生した千葉大学は、校舎が市内3カ所と松戸市2カ所、また四街道市にも分散しきわめて不便でした。それを解消するため、東大敷地中の8割を千葉大の拠点キャンパス地として譲り受けたのです(2割は実験所として残された)。
移転整備が始まったのは、1962年のことでした。(2012年12月)

  • 1935年の薬学部全景(上)
    薬学部にある現在の屋根飾り(下)

薬学部前にある白い木造建築は何?

薬学部は1890年に遡る歴史を持ちます。1918年に新築された「猪之鼻学舎」(当時は千葉医学専門学校薬学科)の上には屋根飾りがありました。
薬学部は、1966年西千葉に移転しますが、旧校舎が解体された82年、屋根飾りは西千葉に運ばれ、85年に構内に展示されます。
そして、歴史ある学舎のシンボルゆえ、2011年、亥鼻地区に戻った薬学部の新校舎前、実はかつてと同じ場所に再設置されたのです。(2014年12月)

  • 千葉大学歌

千葉大学歌の作詞者、作曲者は?

1955年に誕生した学歌の作曲は平井康三郎、作詞は勝承夫です。
平井は東京音楽学校等の教員を務めながら、合唱曲や全国各地の校歌を多く作曲しており、最適任者とされました。一方、作詞は著名な詩人・三好達治に依頼する予定でした。
しかし、平井が、「三好の詩は『見る詩』であり、『朗読する詩』であるため、自信をもって引き受け難い。勝の作品ならば、作曲できる」と答えたため、勝承夫に作詞を依頼したと伝えられます。(2014年4月)

  • 「留学生部」は南門のそばにあった(1965年)

千葉大学が留学生教育の拠点だったって、ホント?

千葉大学には1960年から63年まで「留学生課程」、64年から72年まで「留学生部」が置かれ、全国の国立大学理科系に3年次編入を希望する国費留学生の日本語や基礎科目の教育が3年間の課程で行われていました。
この課程があったのは、千葉大と東京外大の2校だけで(外大は文系学生を担当)、千葉で学んだ留学生の総数は433名(20の国・地域)に上ります。
この伝統は1991年創設の留学生センター(のち国際教育センター)に引き継がれていきます。(2014年4月)

  • 赤星先生像

園芸学部の事務棟の前にある胸像は誰?

1912年から1931年までの長きに渡り、校長を務めた赤星朝暉です。
千葉県立園芸学校時代は「経費がかかるのに、千葉県内の学生が少ない」等の理由で県議会から批判され、廃校の危機に面したのですが、赤星たちの尽力で、国立に移管することができました。
その功績を讃えるため、同窓会(戸定会)が彫刻家・高村光太郎(詩人としても有名)に製作を依頼。鋳造は東京美術学校教授だった弟の高村豊周が担当し、1936年に完成したのが、この胸像です。(2014年4月)

  • 千葉大学振興宝くじ

千葉大学発足後、資金不足を補うため実施した意外な方法とは?

千葉県の主催で、1949年冬に実施された「千葉大学振興宝くじ」です。それを大学や会社、各市町村を通じて販売しました。
また教職員や学生にも割当枚数があり、自らの教学環境を整えるため、北風の中、知人や市民に売り捌いたそうです。
その結果、一千万円ほどの収益があがり、いくつかの建物の新築が叶いました。新制大学を作り上げようとする教職員・学生・地域社会の熱意の賜物であったと伝えられています。(2013年3月)

  • 松戸時代の工学部本部

工学部のキャンパスは松戸にあった?!

工学部は、1922年4月、東京・田町に開校された東京高等工芸学校をルーツとしています。同校は、工芸図案や金属工芸、印刷・写真などが学べるきわめて特色ある官立学校でしたが、1945年5月の空襲で焼失したため、戦後の同年10月千葉県松戸市岩瀬の元陸軍工兵学校跡に移ってきました。
そして、1949年、千葉大学工芸学部として再出発します(51年に工学部に変更)。
そのため、キャンパスは、1964年までの20年間、松戸に置かれていました。
(2013年7月)

  • 医学部に残る「国際支援」の史跡

医学部に残る「国際支援」の史跡とは?

1911年に辛亥革命が起こった際、千葉医学専門学校(当時)には、40名余の清国留学生がいました。
彼らが「赤十字隊を結成し、敵味方ない人道的救援に赴きたい」と訴えたのを受け、教職員や学生が医薬品購入のため義援金を拠出し、さらに教員たちは緊急医療技術を伝授しました。
復学した留学生たちが、学校関係者に感謝するため建てた「紀念碑」は、今も旧医学部本館前にあります。この碑は国際支援・交流の得難い証人と言えるでしょう。(2013年3月)

  • 現在の附属図書館

附属図書館本館が最初にできた場所はどこ?

1950年4月、文理学部が新設された稲毛・小仲台(現在は留学生寮等がある)に作られました。
しかし、そこは旧陸軍防空学校跡地で、高射砲を運ぶ専用車を格納していた車庫に床を貼り、仕切りや窓を付けたきわめて粗末な図書館でした。
書庫は20m余り離れた3階建の不燃建造物に設けられましたが、それは模型飛行機を打ち落とすための試射場だったとされます。今の図書館と比べると、隔世の感があります。(2014年4月)

  • 千葉大学学章

千葉大学学章、デザインの意味は?

これは、千葉大学の頭文字「C」と「D」を重ね、さらに「千」の文字を加えたデザインから構成されています。
形は無限の生命力を象徴する植物の種子をイメージし、赤色は情熱を、白色は純粋を表現しています。
大学創設時の1949年に171点の応募作品の中から選ばれたこの作品は、工芸学部(当時)講師の赤穴宏氏の作品でした。
赤穴氏は、60歳まで工学部教授を務めた後、武蔵野美大油絵学科教授に転出し、洋画家としても多くの作品を残しています。(2013年3月)

  • 亥鼻公園にある「千葉大学教育学部記念碑」

教育学部が最初にあった場所はどこ?

1949年、千葉大学が誕生した際、教育学部(当時は学芸学部)があった場所は、現在の亥鼻キャンパスにほど近い「西猪鼻(現市場町)」でした。
教育学部の前身である千葉師範学校が、1897年から同地で教育を行っていたためです。西千葉に全面移転する1962年までは、ここでの学びが続けられました。
この旧校地には、いま県立中央図書館や県立文化会館が建っていますが、「教育学部創設の地」を記念する石碑が建てられています。(2014年9月)

  • 京成電鉄「みどり台駅」

「みどり台駅」の名称が、何度も変わったこと、知ってる?!

1923年に最初に設置された時の名前は「浜海岸駅」で、駅の西側まで海が迫っていました。
しかし、1942年、駅の東に東京帝国大学第二工学部(現西千葉キャンパス)が開設されたため、「帝大工学部前駅」となります。
1948年には「帝大」を取った「工学部前駅」に変わり、東大工学部が廃止された1951年からは「黒砂駅」に変わりました。
しかし、駅の所在地が「緑町」であったため、1971年に「みどり台駅」となります。なんと4度目の改名でした。(2014年4月)

  • 園芸学部のフランス式庭園(完成当時)

園芸学部内にはもともとアメリカ式の庭園もあった?!

園芸学部の四季を今も彩るサンクガーデン(フランス式庭園)、前庭(イタリア式)、新庭園(イギリス式)は、1910~14年に教員と学生が協力して造りあげたものです。
さらに、刈込式のアメリカ式庭園や枯山水の日本庭園、また牡丹園もあり、そこを訪れた与謝野晶子が詠んだ歌も残っています。
後三者は、戦後の校地整備で消滅しましたが、その他の庭園群は、2009年、日比谷公園などとともに、近代造園遺産に選定されています。(2013年3月)

  • 海洋バイオシステム研究センター

千葉大学に「水族館」があるってホント?

千葉県南部の鴨川市にある千葉大学海洋バイオシステム研究センターに「こみなと(小湊)水族館」があります。
このセンターは、1932年に設置された水産講習所(現東京海洋大学)付属実験実習場をルーツに持ち、現在は海洋環境とそこに生息する生物の相互関係を研究しています。
水族館は、隣接する展示室ともども、房総の海に棲む生物の研究成果を広く公開しています。(2014年7月)

  • 七号塚

亥鼻キャンパスに大木と祠があるのはなぜ?

「七天王塚」と呼ばれ、それぞれ「牛頭天王」が祭られています。
この塚は、亥鼻キャンパス内に五つ、外に二つあり、源平期から戦国期まで当地を支配していた千葉氏の守り神を祀っているとされます(上から見ると、北斗七星状に配列されています)。
「平将門に関わる古跡だ、枝を切ると祟りにあう」等の伝承もあり、千葉大学随一のパワースポットと言えるかもしれません。
なお、樹種はタブが多く、樹齢数百年の大木もあります。(2013年9月)

  • ヒポクラテスの胸像

亥鼻キャンパスにある「ヒポクラテスの木」とは何?

「医学の祖」ヒポクラテスの胸像が医学部新館の玄関正面(4階部分)に据えられています。これは、イタリアのウフィツィ美術館が例外的に複製を認めた五体中の一体できわめて貴重な像とされます。
また、旧正門正面の庭内左側および附属病院の前庭には、ギリシャから頒けられた「ヒポクラテスのすずかけの木」が立っています。
像も木もそばに由来の説明がありますが、これらは若き医学徒に「ヒポクラテスを鑑とし《医の倫理》を学んで欲しい」と願うOBから各々寄贈されたものです。(2013年12月)

  • 附属図書館屋上に設置されている「やよいの鐘」

「やよいの鐘」って、何?

千葉大学創立30周年記念事業の一環として、1982年に、附属図書館本館の塔屋に設置されたのが「やよいの鐘」です。
鐘の表面には、千葉大学の理念である「AD ALTIORA SEMPER」(つねにより高きものをめざして)の文字のほか、千葉大学のルーツとなった7つの旧制学校の校章が刻まれています。
設置当初は正午と夕方に鳴らしていましたが、近年は老朽化などのため、使われていません。
しかしその音色は、大学の公式HPで確認することができます。(2015年3月)

  • 『千葉県東葛飾郡誌』(1923年)からの抜粋

園芸学部のある松戸キャンパスは、もともと何だったか?

県立千葉中学校松戸分校が1901年、松戸町に創立されました。
しかし5年後に廃止となり、校地は私立松戸中学校に貸与されたものの、同校もすぐに閉校となります。
跡地を有効活用するため、1909年に誕生したのが、千葉県立園芸専門学校(現園芸学部)でした。そのため、当初は元松戸中学校生を編入するための予科が設置されていました。
「戸定が丘」の校地は、意外な経緯で現在に至っているのです。(2015年6月)

  • 戦局が厳しくなり、外壁に迷彩(カムフラージュ)がほどこされた旧千葉医大附属病院 (現在の医学部)

1945年8月に医学部が疎開していた場所とは?

1945年7月、激しい空襲を受けた千葉市内では、千葉医科大学も、附属病院(現・医学部本館)を除き、焼失してしまいました。
こうした状況下で、6月に医大附属医学専門部を、8月には学部も長野県下伊那郡へ疎開させることが決定します。
しかし、この「千葉医科大学天竜分室」開講式挙行の5日後に戦争が終わりました。医療資材の一部は同地に寄付され、それを活かした「長野県立阿南病院」が1948年に誕生し、現在も地域医療に貢献しています。(2015年9月)

  • 学部学生像(1985年の『千葉大生白書』より)

1980年代半ばの千葉大生のイメージは?

『千葉大学五十年史』(1999年)には、1985年頃の千葉大生のイメージイラストが掲載されています(同年発行の『千葉大生白書』からの再収録)。
作者は、7学部で異なる学生イメージをユーモアたっぷりに描いています(薬と看護は未掲載)。
『五十年史』は、「この頃の千葉大生は流行に左右されず、地味であった」と解説していますが、現在はどうなのでしょうか。
(2015年12月)

  • 杉田玄白等による「解体新書」(1774年発刊)

附属図書館にある江戸時代の「お宝本」とは?

附属図書館亥鼻分館には、戦前戦後を通じて集められたきわめて貴重な「古医書コレクション」5500点が収められています。その中の一冊に、1774年に発刊された『解体新書』があります。同書は、杉田玄白たちがオランダ語の原典を苦心の末、翻訳した西洋医学紹介のための記念碑的作品で、高校の歴史教科書にも載せられています。この古医書群は、図書館のウェブサイトから写真版として閲覧することができます。(2016年3月)

  • 手塚岸衛著『自由教育真義』 (1922年)附属図書館蔵

大正時代に「附属小学校」が全国から注目された理由は?

1919年千葉県師範学校(教育学部の前身)の附属小学校に、赴任した手塚岸衛は、教員の考えを画一的に押し付けるのではなく、子どもの考えを自由に発表させる等の「自由主義教育」を展開します。
大正デモクラシーという思潮を背景に、県内外から大勢が授業見学に訪れ、社会的にも大きな影響を与えていきました。
しかし、こうした実践は次第に批判を浴び、手塚が他校に転勤させられる中、この斬新な試みは終焉してしまいます。(2016年6月)

  • 発掘された古墳の石室

文学部の考古学研究室は、亥鼻キャンパスで、何を発掘したのか?

文学部考古学研究室は、2002年から2011年まで、3期にわたり、亥鼻キャンパスの発掘調査を行ない、弥生時代から古墳時代に至る15戸以上の集落跡や埴輪片を伴う前方後円墳、さらに中近世の陶磁器片を発見する成果を挙げました。
キャンパスの西方にそびえる千葉城(千葉市郷土博物館)は、1967年に史実と関係なく建造されたものですが、亥鼻台は鎌倉時代の千葉氏の拠点だけではなく、長きにわたる先人の営みがあったことを発掘は明らかにしたのです。(2016年9月)

  • 発掘された古墳の石室

「柏の葉キャンパス」は、どのように作られてきたのか?

松戸にある園芸学部に隣接する農場が手狭になったため、1991年、アメリカ軍柏通信所跡地を譲り受け、広さ25haの「柏農場」が新設されました。
その後、土地の一部を東京大学へ割譲し、現在の「環境健康フィールド科学センター」を2003年に設立。「環境健康学」の拠点として再スタートしました。
2005年には、つくばエクスプレスの駅が設置されたことも併せ、千葉大学の新しい顔となりました。(2017年1月)

  • 流山市にある常与寺

教育学部の原点となった場所はどこか?

千葉県流山市です。明治維新の後、1872年に近代教育を始めるための学制が発布されると、印旛県印旛郡流山町(現在の流山市)にある常与寺に、印旛官員共立学舎が創設されました。
翌年、千葉県が発足すると、千葉町(現在の千葉市)に移転。名称も千葉学校、そして千葉師範学校と変わり、戦後の教育学部に繋がります。
現在、常与寺には、「千葉師範学校発祥之地」という記念碑が建っています。
(2017年3月)

  • 看護学部のロゴマーク

看護学部のロゴマークは、何をデザインしたものか?

ランプの灯をモチーフにしたものです。1975年、千葉大学に日本の国立大学で初めての看護学部が設置され、そのときに写真のような記念メダルが作成されました。
その表側には、「太陽が沈んだ後も、灯を頼りに続けられる」という看護の仕事を象徴するランプの灯が刻まれていました。
ロゴマークはこのメダルのデザインをアレンジして誕生したものです。(2017年3月)

  • 看護学部のロゴマーク

大正時代の園芸学部を訪ねた有名な歌人は?

与謝野晶子です。1924年6月、歌人の与謝野晶子が夫の鉄幹とともに、園芸学校の庭園を訪問。60首の歌を残しています。そのころ、「松戸の園芸学校の牡丹は東京付近で第一」と称えられるほど、園芸学部の前身である千葉県立高等園芸学校の花の美しさは有名でした。「うすものの女の友を待ちえたる松戸の丘のひなげしの花」など2首を刻んだ歌碑が、現在学内に建てられています。
(2017年3月)

薬学部に「薬草園」があるって本当?

亥鼻キャンパスにあります。薬学部が亥鼻から西千葉に移転した1967年、西千葉キャンパスに薬用植物園が設置されました。
また、1968年には館山市に館山圃場も設置されました。その後、2011年に薬学部が西千葉から亥鼻キャンパスへ戻った際、薬用植物園も一緒に移りました。
現在も薬用資源教育研究センター附属薬用植物園として、生薬学など薬学領域の実践的な教育や研究の場として活用され続けています。(2017年3月)

最初の協定校はドイツのゲッティンゲン大学

2017年6月現在、学生交流協定校は、39の国(地域)の234大学(機関)に及びます。
その第一号は、1982年に協定を結んだゲッティンゲン大学でした。アラバマ大学(アメリカ:1984年)、湖南大学(中国:1985年)
なども古くからの協定校ですが、グローバル化が急速に進んだこの10年で、その数は約5倍に増えました。
留学は他に代えがたい経験です。積極的に挑戦してみませんか?(2017年6月)

徳川家ゆかりの文化遺構松戸キャンパスに隣接

松戸キャンパス北隣の「戸定邸」は、水戸徳川家当主で徳川慶喜の弟、徳川昭武が1883年に建設した別邸と庭園で、それぞれ国の重要文化財と国指定名勝に指定されています。
特に庭園は、昭武が1867年のパリ万博で見た美しい庭園を模したとも言われ、広い芝生の向こうに富士山が見える雄大な風景は、四季折々に心を和ませてくれます。
その南側には、園芸学部のフランス式庭園(1912年完成)があり、不思議な縁も感じさせるところです。(2017年9月)

医学部のロゴマークは、何をデザインしたものか?

医学部は1874年設立の千葉町共立病院をルーツとし、140年以上の歴史を持ちます。
明治大正期に活躍した三輪徳寛教授(外科)は「獅子のように細心で大胆な肝力、鷹のような全体を見通し判断する眼力、女性の手のように柔らかい手技」を意味する「獅胆鷹目行以女手(したんようもくおこなうにじょしゅをもってす)」の格言を、医学生に伝え続けてきました。
その伝統を引き継ごうとする意図から、2011年に新たなマークが作られました。(2017年12月)

  • 記念碑は貫井正納名誉教授が理事長をつとめるNPO法人ちばサイエンスの会が建立

西千葉は「ロケット研究」発祥の地

西千葉キャンパスの地所は、もともと東京大学生産技術研究所のものでした。
1955年、ここで、糸川英夫東京大学教授(当時)が23センチのペンシルロケット発射に成功し、日本のロケット研究が始まりました。
それを記念する碑が、西千葉駅北口に建っています。現在の千葉大学には、ロケット研究とは異なる、新たな角度から「宇宙」を研究する「ハドロン宇宙国際研究センター」が大学院理学研究院に置かれています。
(2018年3月)

  • 市川市にある郭沫若記念館

附属図書館の「郭沫若(かくまつじゃく)記念文庫」とは

郭沫若は、近現代中国の文学者・歴史家として著名な人物です。
草創期の千葉大学に図書や資料が少ないことを嘆いた大槻信良文理学部教授(当時)が、1955年、中国科学院院長の要職に就いていた郭に書籍寄贈の手紙を書きました。
元留日学生の郭は千葉県市川市で十年余り過ごした経験も持っていたため、依頼を快諾し、歴史書など三千冊を寄付してくれました。
現在、それらの文書は附属図書館の貴重書になっています。(2018年3月)

  • 校章は聖火を中心にマーキュリーの羽根、そこにハンマーと筆を組み合わせたもの

工学部発祥の地は、東京・田町だった

工学部の前身は1921年に創設された東京高等工藝学校です。同校は日本の工芸産業教育を牽引し、デザイン界などに多くの人材を輩出しました。
しかし1945年の空襲で焼失したため、松戸市に移転し、その後、千葉大学の工芸学部(のち工学部)に転じました。
JR田町駅の南側、東京工業大学附属科学高等学校がある敷地の一隅に、OBたちの手による同校の「校章」をかたどった記念碑が立っています。(2018年3月)

  • 1932年3月卒業写真。現在のフランス庭園前にて(「千葉高等園芸学校校友会会報」21号)

留学生がもたらした小玉スイカ

園芸学部の前身「千葉高等園芸学校」初の留学生は、1916年に入学した繆嘉祥(びゅうかしょう)でした。
彼が中国から持って来たスイカの試作に、橋本章司教授が成功し、後の小玉スイカの育種として大きな役割を果たしました。
橋本教授が「嘉宝」と命名したこのスイカは、現在でも手軽に入手でき、人気があります。
その由来こそ忘れられていますが、「嘉宝」の名付けが師弟関係の深さを今に伝えています。(2018年7月)

  • 千葉市内にある記念碑

医学部の起源となった千葉町共立病院

1874年、千葉県令の呼びかけに応じた千葉町の有志と三井組が資金を出し、共立病院ができました(院内公園付近)。
76年には移転し、医学教場を併設した公立千葉病院になりました(「きぼーる」付近)。
医学部創立85周年として1960年にそれぞれ記念碑が建てられました。
千葉町民からの寄金で作られた共立病院を、医学部がその起源としていることは、意義深いものがあります。(2018年10月)

  • 1956年ころの文理学部(左正面は新築した学生ホールでその後ろが元車庫、右後ろの建物が元馬小屋)

理学部は稲毛・小仲台から始まった

2018年に創立50年を迎えた理学部のルーツは、1949年の「学芸学部」にあります。翌年「文理学部」となり、稲毛・小仲台の陸軍高射学校の跡地に入りました。
旧軍施設を再利用したため、馬小屋が生物学・地学教室に、車庫が化学教室に、工場が物理学教室にそれぞれ転用されました。
こうした環境の中から、戦後の教育研究が出発していったのです。 西千葉キャンパスに移転したのは1963年のことでした。
(2018年12月)

  • 改装前の松韻会館(2015年8月撮影)

西千葉キャンパスの玄関口にある建物の由来

南門を入ってすぐのY字路に立っている瀟洒(しょうしゃ)な建物は、工学部の施設です。
同学部の前身校に当たる「東京高等工芸学校」の創立40年記念会が1961年に開かれた際、記念会館の設立計画が動き出し、1967年に完成。
西千葉駅構内から続く松林の中に建てられたため、「松韻(しょういん)会館」と命名されました。2016年に改築、周辺整備がなされ、開放的な空間に生まれ変わりました。(2019年3月)

  • 改装前の松韻会館(2015年8月撮影)

医学部の旧正門前にあるオブジェは何?

医学部創立85周年(1960年)記念に建てられた記念像で、右側面に長尾精一先生像、左側面に荻生録造先生像のレリーフがはめ込まれています。
長尾は1880年に公立千葉病院長として赴任以来、官立第一高等学校医学部、官立千葉医学専門学校と組織が変遷しても校長を歴任。
荻生は1902年に長尾の後を継ぎ、同校を発展させ続けた功績を称える文章がこのオブジェに刻まれています。(2019年6月)

日本最初のラジオ放送は工学部の前身校から

工学部の前身校は、JR田町駅の南西にあった東京高等工芸学校でした。
1924年11月に東京放送局(現在のNHK)が誕生した際、仮放送所は同校の図書室に置かれました。そして翌年3月22日、そこから、日本最初のラジオ放送が行われたのです。
その後、放送局は愛宕山に移転し、7月から本放送が開始されます。そして現在、東京・田町の学校跡地には、「放送記念碑」が建てられています。(2019年9月)

  • 当時の温室

海外の使節団をもてなした園芸学部の前身校の庭園

1936年、ブラジル経済使節団一行が、園芸学部の前身校である千葉高等園芸学校を訪問しました。
当時の新聞によれば「東洋一を誇る大温室をはじめ果樹蔬菜園を視察、教育施設の完備に賛嘆の声を放ち、新庭園の秋色を賞した」(『朝日新聞』同年9月24日夕刊2面)。
さらに、1938年には「ペルー経済文化使節団」も来訪しています(『朝日新聞』同年11月2日夕刊1面)。東京近郊で、美しい庭園を備えていた同校は、海外の賓客をもてなす場となっていたようです。(2020年3月)

  • 1920年頃の県立千葉病院

歴史的流行病に対する附属病院の貢献

1918年から流行した「スペイン風邪」は、当時人口147万人の千葉県内に30万もの罹患者を出しました。
県立千葉病院(現医学部附属病院)も対応に追われる日々でしたが、県内の看護婦不足が問題となったため、看護婦の育成や実習も併せて担当することになりました。
今回のコロナ禍もそうですが、歴史的な流行病に対する、病院関係者の真摯な対応や献身に対しては感謝の言葉しかありません。(2020年6月)

  • 1978年3月に竣工した人文学部新館

文系学部の誕生

1949年に誕生した新制千葉大学に、本格的な文系学部が設置されたのは、文理学部が改組され、人文学部と理学部が生まれた1968年のことでした。
人文学部は1981年に文学部と法経学部(2014年法政経学部と改称)へと発展し、人文科学と社会科学について、より深く学びかつ研究する態勢が完成しました。
それから40年が経ち、両学部の存在意義はますます大きくなっています。(2020年9月)

  • 国立移管記念碑

松戸キャンパスにある「移管記念」と刻まれた自然石は?

園芸学部の前身である千葉県立園芸専門学校(1909年創設)は、経済面などを理由に、県議会によって「廃校」の決議をされました。
しかし、OBたちが国に何度も陳情した結果、29年に国立移管が認められ、存続が決まりました。
イタリア庭園内に残るこの記念碑には「本校で学ぶ者は、昔日の苦難と奮闘の歴史に鑑み、精励力行し、母校の発展に尽すことを願う」というOBたちの熱い想いが刻まれています。(2020年12月)

  • 七天王塚の配置

亥鼻キャンパスに祀られている「牛頭天王」

コロナの流行により疫除けのアマビエに脚光が当たっています。一方、平安時代に京都で流行した疫病封じのため、祇園社に祀られたのが牛頭天王でした。
実は医学部と薬学部周辺にある大樹と祠7つからなる「七天王塚」はこれを祀ったもので、石碑の一つには「安永二年(1773)」の文字も見えます。
医学部の前身校が1890年に亥鼻の地に移ってくる何百年も前から庶民の信仰を集めていたのです。  (2021年3月)

  • 稲毛寮外観

50年使われた稲毛寮の解体

稲毛区小仲台に1965年に建設され、2016年3月に閉寮された稲毛寮が、この夏に解体されます。
1部屋に2名が住み、定員は208名でしたので、50年で10,000名近い学生が青春の日々を過ごしたことになります。
壁には落書きやシールなど当時の生活のあとが色濃く刻まれています。1990年代までは寮祭が行われ、手作り神輿や仮装行列が駅周辺まで練り出し、町の名物行事だったそうです。(2021年7月)

  • 旧土岐家住宅洋館(写真提供:沼田市教育委員会)

園芸OBが建築したドイツ風洋館

1915年に千葉県立高等園芸学校(園芸学部の前身)を卒業した土岐章(1892~1979)は沼田藩(群馬県)藩主土岐頼知の子息で、1918年には子爵となります。
ドイツ留学の経験があった土岐は、1924年に渋谷にドイツ風の洋館を建てました。その後、1990年に所縁の地・沼田市に移築され、登録有形文化財として公開されています。
沼田市内には千葉大学の森林環境園芸農場もあり、不思議な縁を感じるところです。(2021年10月)

  • 医学部本館4階の旧小児科病室の壁面を彩るタイル画

旧小児科病室のタイル画

2021年10月に閉館した医学部本館は1937年に竣工した附属病院でした。
当時の小児科教授・詫摩武人(たくま たけひと:乳児栄養学の第一人者)は、新しくなった小児科の病室壁面に様々なタイル画を作成しました。現在も、うさぎ、象、孔雀などの動物、鉄道や帆掛け船などの交通機関のほか兵隊の行進などがきれいに残っています。
入院中の子どもたちに安らぎを与え、心にも栄養を与える配慮であったと思われます。(2021年12月)

文責:大学院国際学術研究院 見城悌治