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千葉大学の歴史トリビア

千葉大学の歴史トリビアThe history trivia of Chiba University

千葉大学発足時に構想されていた幻の学部とは何か。

1948年の「千葉大学設置申請」には、千葉地域の特色を活かすため、水産学部・畜産学部の構想も掲げられていました。
特に、水産学部については、「三方を海に囲まれ、漁業が盛んだが、漁法などは古く停滞している現状を、科学的に啓蒙する指導者・技術者を養成したい」とする千葉県当局が、館山市への設置を訴え、経費の一部を負担する準備をしていました。
また大学側も積極的な姿勢を見せていたのですが、東京水産大学設置が先行したこともあり、結局、幻に終わりました。

「看護学部」の第一期生の男女比は?

国立大学で唯一の「看護学部」が設置されたのは1975年のことで、医療の急激な発展に対応する専門家の育成に応えるためでした。
初年度は変則日程で入試が4月下旬、開講は5月でした。このときの志願者は466名おり、合格者は61名、競争率は7.6倍でした。
現在の看護学部は定員80名中、男子学生は数名しかいませんが、初年度は22名が男性(全体比3割)で、看護学部という新しい領域が、社会的に大いに注目されたことが窺えます。

1948年の西千葉(東大第二工学部)の航空写真

1935年の薬学部全景(上)
薬学部にある現在の屋根飾り(下)

千葉大学歌

西千葉キャンパスの隣りに、東京大学生産技術研究所があるのはなぜ?

西千葉地区は、1942年に「東京帝大第二工学部」として開かれた場所で、その10年後には「東京大学生産技術研究所」となりました。
一方、1949年に誕生した千葉大学は、校舎が市内3カ所と松戸市2カ所、また四街道市にも分散しきわめて不便でした。それを解消するため、東大敷地中の8割を千葉大の拠点キャンパス地として譲り受けたのです(2割は実験所として残された)。
移転整備が始まったのは、1962年のことでした。

薬学部前にある白い木造建築は何?

薬学部は1890年に遡る歴史を持ちます。1918年に新築された「猪之鼻学舎」(当時は千葉医学専門学校薬学科)の上には屋根飾りがありました。
薬学部は、1966年西千葉に移転しますが、旧校舎が解体された82年、屋根飾りは西千葉に運ばれ、85年に構内に展示されます。
そして、歴史ある学舎のシンボルゆえ、2011年、亥鼻地区に戻った薬学部の新校舎前、実はかつてと同じ場所に再設置されたのです。

千葉大学歌の作詞者、作曲者は?

1955年に誕生した学歌の作曲は平井康三郎、作詞は勝承夫です。
平井は東京音楽学校等の教員を務めながら、合唱曲や全国各地の校歌を多く作曲しており、最適任者とされました。一方、作詞は著名な詩人・三好達治に依頼する予定でした。
しかし、平井が、「三好の詩は『見る詩』であり、『朗読する詩』であるため、自信をもって引き受け難い。勝の作品ならば、作曲できる」と答えたため、勝承夫に作詞を依頼したと伝えられます。

「留学生部」は南門のそばにあった(1965年)

赤星先生像

千葉大学振興宝くじ

千葉大学が留学生教育の拠点だったって、ホント?

千葉大学には1960年から63年まで「留学生課程」、64年から72年まで「留学生部」が置かれ、全国の国立大学理科系に3年次編入を希望する国費留学生の日本語や基礎科目の教育が3年間の課程で行われていました。
この課程があったのは、千葉大と東京外大の2校だけで(外大は文系学生を担当)、千葉で学んだ留学生の総数は433名(20の国・地域)に上ります。
この伝統は1991年創設の留学生センター(現国際教育センター)に引き継がれていきます。

園芸学部の事務棟の前にある胸像は誰?

1912年から1931年までの長きに渡り、校長を務めた赤星朝暉です。
千葉県立園芸学校時代は「経費がかかるのに、千葉県内の学生が少ない」等の理由で県議会から批判され、廃校の危機に面したのですが、赤星たちの尽力で、国立に移管することができました。
その功績を讃えるため、同窓会(戸定会)が彫刻家・高村光太郎(詩人としても有名)に製作を依頼。鋳造は東京美術学校教授だった弟の高村豊周が担当し、1936年に完成したのが、この胸像です。

千葉大学発足後、資金不足を補うため実施した意外な方法とは?

千葉県の主催で、1949年冬に実施された「千葉大学振興宝くじ」です。それを大学や会社、各市町村を通じて販売しました。
また教職員や学生にも割当枚数があり、自らの教学環境を整えるため、北風の中、知人や市民に売り捌いたそうです。
その結果、一千万円ほどの収益があがり、いくつかの建物の新築が叶いました。新制大学を作り上げようとする教職員・学生・地域社会の熱意の賜物であったと伝えられています。

松戸時代の工学部本部

医学部に残る「国際支援」の史跡

現在の附属図書館

工学部のキャンパスは松戸にあった?!

工学部は、1922年4月、東京・田町に開校された東京高等工芸学校をルーツとしています。同校は、工芸図案や金属工芸、印刷・写真などが学べるきわめて特色ある官立学校でしたが、1945年5月の空襲で焼失したため、戦後の同年10月千葉県松戸市岩瀬の元陸軍工兵学校跡に移ってきました。
そして、1949年、千葉大学工芸学部として再出発します(51年に工学部に変更)。
そのため、キャンパスは、1964年までの20年間、松戸に置かれていました。

医学部に残る「国際支援」の史跡とは?

1911年に辛亥革命が起こった際、千葉医学専門学校(当時)には、40名余の清国留学生がいました。
彼らが「赤十字隊を結成し、敵味方ない人道的救援に赴きたい」と訴えたのを受け、教職員や学生が医薬品購入のため義援金を拠出し、さらに教員たちは緊急医療技術を伝授しました。
復学した留学生たちが、学校関係者に感謝するため建てた「紀念碑」は、今も医学部本館前にあります。この碑は国際支援・交流の得難い証人と言えるでしょう。

附属図書館本館が最初にできた場所はどこ?

1950年4月、文理学部が新設された稲毛・小仲台(現在は留学生寮等がある)に作られました。
しかし、そこは旧陸軍防空学校跡地で、高射砲を運ぶ専用車を格納していた車庫に床を貼り、仕切りや窓を付けたきわめて粗末な図書館でした。
書庫は20m余り離れた3階建の不燃建造物に設けられましたが、それは模型飛行機を打ち落とすための試射場だったとされます。今の図書館と比べると、隔世の感があります。

千葉大学学章

亥鼻公園にある「千葉大学教育学部記念碑」

京成電鉄「みどり台駅」

千葉大学学章、デザインの意味は?

これは、千葉大学の頭文字「C」と「D」を重ね、さらに「千」の文字を加えたデザインから構成されています。
形は無限の生命力を象徴する植物の種子をイメージし、赤色は情熱を、白色は純粋を表現しています。
大学創設時の1949年に171点の応募作品の中から選ばれたこの作品は、工芸学部(当時)講師の赤穴宏氏の作品でした。
赤穴氏は、60歳まで工学部教授を務めた後、武蔵野美大油絵学科教授に転出し、洋画家としても多くの作品を残しています。

教育学部が最初にあった場所はどこ?

1949年、千葉大学が誕生した際、教育学部(当時は学芸学部)があった場所は、現在の亥鼻キャンパスにほど近い「西猪鼻(現市場町)」でした。
教育学部の前身である千葉師範学校が、1897年から同地で教育を行っていたためです。西千葉に全面移転する1962年までは、ここでの学びが続けられました。
この旧校地には、いま県立中央図書館や県立文化会館が建っていますが、「教育学部創設の地」を記念する石碑が建てられています。

「みどり台駅」の名称が、何度も変わったこと、知ってる?!

1923年に最初に設置された時の名前は「浜海岸駅」で、駅の西側まで海が迫っていました。
しかし、1942年、駅の東に東京帝国大学第二工学部(現西千葉キャンパス)が開設されたため、「帝大工学部前駅」となります。
1948年には「帝大」を取った「工学部前駅」に変わり、東大工学部が廃止された1951年からは「黒砂駅」に変わりました。
しかし、駅の所在地が「緑町」であったため、1971年に「みどり台駅」となります。なんと4度目の改名でした。

園芸学部のフランス式庭園(完成当時)

海洋バイオシステム研究センター

七号塚

園芸学部内にはもともとアメリカ式の庭園もあった?!

園芸学部の四季を今も彩るサンクガーデン(フランス式庭園)、前庭(イタリア式)、新庭園(イギリス式)は、1910~14年に教員と学生が協力して造りあげたものです。
さらに、刈込式のアメリカ式庭園や枯山水の日本庭園、また牡丹園もあり、そこを訪れた与謝野晶子が詠んだ歌も残っています。
後三者は、戦後の校地整備で消滅しましたが、その他の庭園群は、2009年、日比谷公園などとともに、近代造園遺産に選定されています。

千葉大学に「水族館」があるってホント?

千葉県南部の鴨川市にある千葉大学海洋バイオシステム研究センターに「こみなと(小湊)水族館」があります。
このセンターは、1932年に設置された水産講習所(現東京海洋大学)付属実験実習場をルーツに持ち、現在は海洋環境とそこに生息する生物の相互関係を研究しています。
水族館は、隣接する展示室ともども、房総の海に棲む生物の研究成果を広く公開しています。

亥鼻キャンパスに大木と祠があるのはなぜ?

「七天王塚」と呼ばれ、それぞれ「牛頭天王」が祭られています。
この塚は、亥鼻キャンパス内に五つ、外に二つあり、源平期から戦国期まで当地を支配していた千葉氏の守り神を祀っているとされます(上から見ると、北斗七星状に配列されています)。
「平将門に関わる古跡だ、枝を切ると祟りにあう」等の伝承もあり、千葉大学随一のパワースポットと言えるかもしれません。
なお、樹種はタブが多く、樹齢数百年の大木もあります。

ヒポクラテスの胸像

附属図書館屋上に設置されている「やよいの鐘」

『千葉県東葛飾郡誌』(1923年)からの抜粋

亥鼻キャンパスにある「ヒポクラテスの木」とは何?

「医学の祖」ヒポクラテスの胸像が医学部本館の階段に据えられています。これは、イタリアのウフィツィ美術館が例外的に複製を認めた五体中の一体できわめて貴重な像とされます。
また、正門正面の庭内左側および附属病院の前庭には、ギリシャから頒けられた「ヒポクラテスのすずかけの木」が立っています。
像も木もそばに由来の説明がありますが、これらは若き医学徒に「ヒポクラテスを鑑とし《医の倫理》を学んで欲しい」と願うOBから各々寄贈されたものです。

「やよいの鐘」って、何?

千葉大学創立30周年記念事業の一環として、1982年に、附属図書館本館の塔屋に設置されたのが「やよいの鐘」です。
鐘の表面には、千葉大学の理念である「AD ALTIORA SEMPER」(つねにより高きものをめざして)の文字のほか、千葉大学のルーツとなった7つの旧制学校の校章が刻まれています。
設置当初は正午と夕方に鳴らしていましたが、近年は老朽化などのため、使われていません。
しかしその音色は、大学の公式HPで確認することができます。

園芸学部のある松戸キャンパスは、もともと何だったか?

県立千葉中学校松戸分校が1901年、松戸町に創立されました。
しかし5年後に廃止となり、校地は私立松戸中学校に貸与されたものの、同校もすぐに閉校となります。
跡地を有効活用するため、1909年に誕生したのが、千葉県立園芸専門学校(現園芸学部)でした。そのため、当初は元松戸中学校生を編入するための予科が設置されていました。
「戸定が丘」の校地は、意外な経緯で現在に至っているのです。

戦局が厳しくなり、外壁に迷彩(カムフラージュ)がほどこされた旧千葉医大附属病院 (現在の医学部)

学部学生像(1985年の『千葉大生白書』より)

杉田玄白等による「解体新書」(1774年発刊)

1945年8月に医学部が疎開していた場所とは?

1945年7月、激しい空襲を受けた千葉市内では、千葉医科大学も、附属病院(現・医学部本館)を除き、焼失してしまいました。
こうした状況下で、6月に医大附属医学専門部を、8月には学部も長野県下伊那郡へ疎開させることが決定します。
しかし、この「千葉医科大学天竜分室」開講式挙行の5日後に戦争が終わりました。医療資材の一部は同地に寄付され、それを活かした「長野県立阿南病院」が1948年に誕生し、現在も地域医療に貢献しています。

30年前の千葉大生のイメージは?

『千葉大学五十年史』(1999年)には、1985年頃の千葉大生のイメージイラストが掲載されています(同年発行の『千葉大生白書』からの再収録)。
作者は、7学部で異なる学生イメージをユーモアたっぷりに描いています(薬と看護は未掲載)。
『五十年史』は、「この頃の千葉大生は流行に左右されず、地味であった」と解説していますが、30年後の現在はどうなのでしょうか。

附属図書館にある江戸時代の「お宝本」とは?

附属図書館亥鼻分館には、戦前戦後を通じて集められたきわめて貴重な「古医書コレクション」5500点が収められています。その中の一冊に、1774年に発刊された『解体新書』があります。同書は、杉田玄白たちがオランダ語の原典を苦心の末、翻訳した西洋医学紹介のための記念碑的作品で、高校の歴史教科書にも載せられています。この古医書群は、図書館のウェブサイトから写真版として閲覧することができます。

文責:国際教養学部 見城悌治